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コラム:七五三

田口祐子 一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団 冠婚葬祭総合研究所 研究員・開智国際大学 非常勤講師

祝いの期間が広がった七五三

 七五三の時期になってまいりました。七五三といえば、11月15日ごろという印象がありますが、最近は9月ごろからちらほら七五三のお祝いをされているご家族を見かけることが増えました。新型コロナウイルスへの感染を心配して神社参拝をする時期を他の人と重ならないようにしたり、利用する写真館の提供するサービスに合わせて日程をずらしたりということがでてきています。

11月15日に集中した祝い日

 さて、明治・大正の頃の東京都心でも七五三は盛んに祝われていました。多くの人が1点集中で、11月15日に合わせて七五三のお祝いをしていました。その様子を当時の新聞記事から知ることができます。当時都心では神田明神と日枝神社が二大参拝先となっていました。例えば、神田明神では15日の朝の7時から夜に入るまで参拝する人が7,500組にのぼったといいます。また鳥居の前には人力車が数多く停められ、「人力車の市」のようになっていたそうです。普段は乗らない人も人力車に乗ったそうで、これはその日のために用意した晴れ着を多くの人にみてもらいたいと思う人が多かったからです。

祝いの中心だった晴れ着

 公務員の初任給が55円だった中、女児の晴れ着は一式を新調すると93円50銭、男児では79円50銭したと明治40年代の記録にあります。親たちはこの日のためにできるだけよいものを用意しようとしました。きれいな晴れ着を着た可愛らしい子どもたちの様子をみようと、神社の中から外まで道の両側に見物人がぎっしり詰めかけ、時には警察官の臨時出動もあったということです。過度に着飾ることを批判する声もありましたが、子どもの成長を祝う大切な日に、できるかぎりのことをしようとする親心が見え隠れします。現在の七五三では親はどのような写真のサービスを利用するかに頭を悩ませることが多いですが、明治・大正の頃の七五三の一番の関心事はなんといっても晴れ着だったのです。
 祝いの形や込められた思いに引き継がれるものもありながら、七五三は時代に合わせて変化もしています。

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